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April 08, 2005

整理。 『ローレライ』の大ヒット LORELEI航跡追尾

(こちらを久しぶりに更新します。鑑賞後、随分時間が経ったような気がしますが、公開はまだ「半ば」ということのようです。この映画の大ヒットを検証することは、かなり重要なことだと思っています。結果的には原作もののような見かけになってはいますが、アニメ諸作や『踊る~』のような人気TV番組、あるいはベストセラー書籍で(物語背景やキャラクター設定の)下地と認知をつくった上でヒットさせた映画とは全く異なる、監督によるオリジナル企画として生まれたものなのですから。またもBlogらしからぬ体裁になってしまいましたが、書き留めます)

 映画版『ローレライ』における創意工夫とは、どのあたりにあるのだろうか。私は、以下の三点に集約して考えてみることにした。

(1)世界観やキャラクターの設定と表現に関し、リアリティーの水準を積極的にアニメに合わせようとしている …作品コンセプト
(2)おたくのマインドを熟知していることを大前提に、成果物としてはライトユーザー向けであろうとしている …商品コンセプト
(3)アニメ+特撮の現場で培った独自の画コンテ作法を、特撮パートだけでなく本編にも適用しようとしている …技術コンセプト

 この三点セットを(個別ではなく三位一体で)、有名俳優を多数起用した実写の娯楽大作に持ち込む。──というところが、おそらく『ローレライ』の“新しさ”であったはずだ(このうちの(3)については方針変更したと語られているわけだが)。
 公開後に起こった賛否両論を見ると、否定論は、リアリティー(を支えるためのディテール)の所在に対する問題指摘が多いようだ。

 しかし、上記の三点を踏まえた上で、様々なメディアにおける近年の樋口真嗣監督の発言を拾い上げ、その思考の軌跡をたどってみると、『ローレライ』を観た時に“欠如”や“不足”と感じさせるうちの多くは、確信犯的なものであるとわかってくる。
 要するに、限られた人のみから高得点をもらうような作品には向かわせずに、全体の平均点を上げることを優先的に目指しているのだ。

 樋口監督本人も「突っ込みどころ満載」と自認しているわけだし、個々の思い入れや見識に従って突っ込みを入れる楽しみも当然あっていいだろう。ただ、つくり手の“企み”と“悩み”は、かなり深いところにあるらしいということも踏まえたい。
 なんてことを考えながら、『ローレライ』鑑賞後、手元の資料を漁ってみた。そこからサンプリングできた樋口語録に沿って考察してみる。

アニメ世代のアドバンテージとは?

 (1)については、特に「ガンダム」との関係で監督と原作者(福井晴敏)がコンセプトを語っている。ほかにも、宮崎アニメや「ヤマト」から「エヴァ」まで、アニメの世界で起こり得ることはこの映画でも許容する、という姿勢でつくられていると言える。

 樋口語録と言いながら、ここだけは原作者のインタビューから拾ってみた。最も“腑に落ちる”説明と感じたのが、この発言だからだ。

 要は実写映画とは、局部を切り取った話ばかりであると。アニメーションはわりと世界をざっくり取って人間を描きつつ、人類も描く。(中略)たまに実写で『帝都物語』みたいな題材をやると、総花的になる。どうして同じ映像なのに両方やれないのかって、最初の段階で無責任に思ってたんです。アニメーションのスピード感とか、そういうアプローチの仕方で第二次大戦みたいなものを描けば、改めて商品として新しいものを提示できると思ってました ── 01

 押井守監督は、これを「アニメの血を実写映画に輸血する」と表現している(「ローレライ COMPLETE GUIDE」角川書店)。私は、作品性にかかわる試みだと受け取っているが、原作者が口にしているように、商品性とも表裏一体だと言ってよさそうだ。

おたくにこそ同族の限界がわかる?

 (2)については、監督、原作者(というよりも二人を共同企画者と見ることが重要だが)ともに、“濃い”の方に針が振れているクリエイターだ。じゃあ、“おたく全開”で進めたのかというと、そうではないところに意識が向かっている。そのさじ加減が興味深い。

 「タイタニック」があれだけ大勢の人に支持をうけたのは、別にタイタニックが沈む特撮がすごいってわけじゃなく、結局恋愛だったりするわけじゃないですか。成就しない恋愛が、最後に海の底で成就するみたいなところが美しいわけで、人の心がそういうところで打たれるのなら、そういうところをちゃんとやらなければだめだなって。ちゃんとやって、さらに特撮で絵的な見せ場で盛り上げられればなおのことよしということですね ── 02

 『タイタニック』の日本公開は、1997年12月。VFXをマニアックに使いこなしつつ、“大衆”の心をつかんだ映画作家として、ジェームズ・キャメロンは、やはり見習うべき“成功モデル”ということなのだろう(特撮マン出身ということも忘れてはならない)。
 VFX(CG)ではなく物語(シナリオ)が重要というのは誰にでも言える“決まり文句”ではある。しかし、樋口監督のポジションから出た言葉であるからこそ重みがある。

 この頃、興行性(商品性)についての発言を樋口監督が幾つか残しているのは、特殊技術の貢献によって映像クオリティーを高く評価されながらも、客層拡大には苦戦を余儀なくされた平成『ガメラ』三部作の経験があるからだと思われる。
 以下は、1999年の『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』公開時のインタビューだ。「特に目指したものは?」と訊かれ、このように答えている。

 当たる映画です。今まで怪獣映画に興味を持っていなかった女のコたちが観にくるような映画にしよう、と。『タイタニック』を観た時に感じてしまったんです。個人的にはパニック映画じゃなかったというあたりが不満だったんだけれども、そういう不満な要素が実はお客さんを集めていた。オレは納得いかないけど『みんな観に来ているじゃん』っていう。極論しちゃうと、キネ旬を読むような映画好きの人たちだけ劇場に集まっただけじゃ映画って大ヒットにならないんですよ。(中略)映画的記憶というものがない、年に1回か2回しか映画館に行かないような人たちでさえ見に行きたいと思うような映画を作らないと、商業としての映画は成功といえない。という意味では、自分を含めて映画好きが高じて映画を作っているということに対して根本的な矛盾がそこにあるかも知れません ── 03

 また、同じ時期、作家としての衝動と関係付けて以下のようなコメントも発している。シネコンの増加やDVDの普及で興行の状況には変化があるのだろうが、ヒットを希求する思いの強さは変わらず、見事『ローレライ』に結実したのではないだろうか。

 いわば、映画を観る目を持っていない人が面白いと思えるようなものの奥にこそ、これからの映画づくりのヒントが隠されているのではないか。極論すれば、最低限の満足感さえあれば、後はいかに凄いものが観られるという雰囲気をつくれれば、それでいいのでは・・・とも思い始めている。これからは映画を観ていない人がどんどん増えていく。観る目が肥えると、映画を観る時に、過去に観たものの記憶や知識に照らして観るようになってしまう。こうした慣れに陥らず、1年に1本しか映画を観ないような人に対して何を訴えていけばよいのかを思案している。大量消費のコンテンツとして映画をつくってみることで、初めて次の一歩が踏み出せると思う。(中略)ものをつくるうえでの根源的な衝動は大勢の人に観てもらえることだ。どうしたら大勢の人に観てもらえるかは、ビジネスの前提ともつながっている ── 04

映画的記憶が鑑賞を妨げる?

 ある程度、リアリティーを犠牲にする(画として嘘をつく)ことについて、樋口監督は、これまでも「ケレン」という表現を使って説明してきた。『ローレライ』の戦闘場面などについても、その方針で臨んだことをはっきりと表明している。

 最終的に人の心に残る絵を作る商売だとするならば、やっぱりケレンみたいなものはどこかに残しておきたいなと。つまらないリアルよりは、面白いケレンの方が好きだな。(中略)意識してるのは、実際の軍事ドキュメンタリーの絵よりは、プラモデルの小松崎茂さんの描かれたような箱絵の世界。自分たちにとっての北斎というものは、小松崎さんのプラモデルの箱絵で、それが最初に持ったわくわくするものだった。つまらないリアルにするんだったら、ああいうものを着地点にして持っていこうと。それは最初の段階でみんなと話し合って決めたこと ── 05

 しかし、『ローレライ』が従来とかなり異なるのは、全く別の次元でディテールの表出にブレーキをかけた部分があると見受けられることだ。
 商業性について語ったコメントの中にあったように、「映画的な記憶(知識、教養…)」の豊かさというものは時に、素直な鑑賞(翻っては創作)や感動の妨げになる。そうした認識に立って、この映画では慎重に舵取りが行われている。

 例えば、樋口+福井の旗印になっている“爆発”。『ローレライ』では、(クロスシミュレーションを使ったとされる)敵艦が水中で爆裂する表現がまさにアニメ的で素晴らしい出来となっているが、見せ方としては抑制を利かせたものだと思う。
 「特撮エース」の連載“爆発道場”のひな型になったと思われる“文芸誌”の対談でかつて、樋口監督は以下のように語っている。

 爆発って、演出家としては踏み絵のようなものなんですよ。爆発を魅力的に見せると、物語の流れが止まるわけですね。「スワロウテイル」の監督は、その先の話っていうか山口智子に進んじゃう。これは映画を語る上で絶対に正しいんだけど、オレとしては爆発が観たい。そこが難しい。さっきの「ザ・ロック」もそうですけど、麻薬のようなもんで、どこに注入するか ── 06

 ディテール表現の取捨選択には当然コストの制約なども関係してくるわけだが、『ローレライ』ではそれ以前に、マニアックになり過ぎてユーザー層を狭めることがないよう、チューニングにかなり気を遣っただろうことが察せられる。

 個人的には、深海に隔離されていることの孤絶感や、死と隣り合わせであることの緊迫感がもっと表現されていてもいいのではないかと感じたのだが、本来目指しているものとしては、それらも優先要素ではなかった可能性がある。

 何よりも潜水艦が好きなんです。もう愛してやまないとでも言うか。陸海空でも、圧倒的に海軍ものの映画が好きなんですよ。白兵戦になると、演出的に緊張感を高めざるを得ないけど、あの緊張感が嫌で嫌でしょうがないんです。一対一で剥き身の人間が銃口向け合って、みたいなのを観てると耐えきれなくなって“やめて~! やめてくれ~!!”って言いたくなってくる。一方で海軍ものは、メカを介しての戦い、というかテクノロジーをいかに駆使して勝つかというあたりに映画としての魅力があふれています。まあ、メカとメカの闘いって、実際は陸戦よりももっとひどいことになるらしいですけど ── 07

 現実との接触部分の摩擦を減らし、ある程度のフラットさを受容しながら、流れを阻害するものを極力捨て去って一気に駆け抜ける。傷や綻びがあっても、少なくとも観ている間には気にならない速度を与える──ことに成功したかどうか。
 興行成績の上位持続力から判断するなら、そのバランスは受け入れられたと認めるべきだろう。もっと上を目指せるはずだ、と私自身は感じたが、その点は以下のようにつくり手が正確に自覚している。だから信頼して次回作を待てる、と思っている。

 「現場でやってた楽しいディテールとかの中に、明らかに映画のエモーショナルな流れを遮断するところが出てくるんですよ。つまりそこで美しくたおやかな流れの線が途絶えて、観客はよそ見をしちゃう。そういう理由で外したカットはいっぱいあるんですが、それをもう一回組み込んでディレクターズ・カットを作るみたいな事はできないですね。(中略)うまく整理せずに撮っちゃたからなんです。本線を活かすために枝葉を全部捨てちゃった部分がある。一番いいのは本線を活かしたまま枝葉も豊かなもの。そういうものをめざしてきたいですね ── 08

「日本人の貌は映えない」は嘘?

 日本映画の場合、大風呂敷を広げる作品となると、どうしても不安があった。日本(東洋)人の俳優が主体では観客を非日常の世界に誘うハリウッド調アクションやファンタジーは成立しにくい、といった議論があったはずだし、私もそう思っていた。
 しかし、韓国映画の台頭によって、この認識は覆されることになったと言える。いち早くこのムーブメントに共鳴し、『シュリ』の日本公開時(2000年1月)に賛辞を寄せていたのが樋口監督だった。そこで得た視点は、『ローレライ』に活かされていると見た。

 日本人の観客は、もしかしたら同族の観慣れた貌に対して、お金を払ってまで観たいとは思わないのではないか。しかし、ならば「東洋の黄色人種は映画のスクリーン出入り禁止?」かというと、中国や韓国の映画、とりわけ韓国発のエンターテイメント大作は、隣国の見分けがつかない貌であったとしても、娯楽の触媒として充分機能しているではないか。ならば、その貌がいいか悪いかじゃなくて、「日常的な慣れ」こそが、問題なんじゃないか? お茶の間で簡単に観る、日常化した貌の延長上にはエキサイティングな非日常は存在しない、って雰囲気がある。だからお客さんにエキサイティングな体験をしてもらって満足していただくには、なにかの大舞台を設けて、いかに"不慣れなもの"を心地よく提供するかが肝だ ── 09
 観客にとって見慣れていた人たちを「脱がせて」しまえばいいんじゃないかなと、考えているんです。(中略)あ、「脱がす」っていうのはあくまで象徴的な意味であって、肉体的な上っ面のことではないです(笑)。徹底的に役柄を動かした上で、絵の切り取り方ひとつ変えれば、観る側が答えあわせしようとしている観慣れたテンプレートを壊して、凌駕させる貌で物語を語れるんじゃないか。それさえ出来れば、日本という製作状況下でも充分通用するエンターテイメントを、演技という身体的表現を用いて映像に定着させられるんじゃないか? アニメやコミックといった表現に充分拮抗できる、いやむしろ凌駕できるエモ-ションを作り出せるはずだ、なぜ誰もやらないんだ、誰もやらないなら、と思い込みはじめて…… ── 09

 こうした貌(かお)に対するこだわりとも無関係でないようなのだが、(3)については、役者の力を目の当たりにし、芝居を画コンテで規定するやり方を初期に捨て去ったことが語られている。監督のインタビューの大半が、この点を主題にしている。
 このことは、『ローレライ』に“樋口監督(≠特技監督)らしさ”が発揮されたのか否かの判定を難しくしている。ただ、(アニメ+特撮仕込みの)画コンテ作法が全く無効とは思っていないようなので、これからの展開で独自性が花開くのかもしれない。

 樋口監督(=特技監督)の画コンテについては、私は長年、見誤っていた部分があるようだ。コンティニュティーという言葉から、てっきり「線的」に映像を発想しているものと思っていたのだが、そうではなく「点的」なのだという。

 今まで俺は映画における点を作っていたんですよ。(中略)それは特撮のカット単位だったり、その点が集合して生まれるシークエンスであったり、それらはあくまで点がダーッと並んでて、遠くから見ると線に見えるとか。実はそれで映画が作れると思ってたんです。点の集合、その密度を濃くすれば良い映画になるんだと。でもそれは全然違いましたね。線なんですよ、やっぱり。線作って、それをどうやってうねりを作って波打たせるか、なんじゃないかと ── 08

 これについては、庵野秀明監督が正確に指摘している。「シンちゃんって、シーンで撮れない男なんですよ。カット単位の組み立てなんですよね。カットでしかものを見れないので、一枚絵なんです。それが最後まで続くと、たまたま一本の映画になってる」(05)とコメントしている。

 『ローレライ』(の特撮)でもまだそこから脱しきれず、特に宣伝面(予告映像)において、これはハンディになっているのではないかと私は感じた。要するに「(特撮の)いいところを結構、予告で“見せきって”しまってるんじゃないの」と鑑賞後に思ったのだ(あくまでも印象)。
 「予告映像に触れる前に鑑賞できてたら、どんなに幸せだったか」とさえ思った。これはおそらく“一枚絵”ゆえの強さ(線、あるいは塊で見た場合の情報バランス)が原因なのだ。

 映画をイベント化する、といった場合には予告映像も込みにした「設計」がやはり不可欠なはずで、これは課題となるだろう。

特撮(VFX)の“平和利用”とは?
 “未来に対する愛と希望、そして責任を持て──”というテーマについては、私はすんなりと受け入れた。これは、子を持つ親なら、「それしかないだろう」と言えるぐらいに心情的には共鳴できるメッセージなのだ。
 ただ、そのテーマを描ききっているかというと、分かりにくいところもまだあるように思う。これは再見時に、改めて考えてみたい。
 企画者としての円谷監督に括っていえば──これはあくまでも企画だけに限定されちゃうのですが、「マイティジャック」(68年・フジテレビ)が大好きです。完成したフィルムとして、ではなく企画としてとてつもなく魅力的ですね。特撮の演出家が考えつく企画として大変素晴らしいと思います。空飛ぶ万能戦艦が個人や国歌の枠を超えて世界を守る、というコンセプトにシンパシーを感じます。(中略)もちろん今現在の社会的情勢も当時よりも一層深刻になってきていますが、そんな時にこそもう一度清廉潔白な理想を掲げる物語を世に送り出してもいいのではないかと思いますね。個人的にももの凄くやりたい企画です ── 10

 特撮(VFX)の歴史は、戦闘・格闘や破壊・爆破(人造物や身体の蹂躙)と共にある。しかし、それによって可能になった(特にハリウッド的な)想像力の発揮のさせ方に警鐘を鳴らす映画人がいないわけではない(9・11以後)。
 結果的に「原作もの」のように見えている面もあるが、特撮マン(特殊技術者)出身のクリエイターが企画から立ち上げ、このようなテーマを導き出した。これは“映像の歴史”のひとコマとして記憶されるべきことのはずだ。

[出典]
01 『映画秘宝』洋泉社 2005年4月号 P.84
02 『好奇心ブック45号「ザ・怪獣魂」』双葉社 1999年8月15日発行 P.19
03 『キネマ旬報』キネマ旬報社 1999年3月下旬号 巻頭特集「ガメラ3 邪神<イリス>覚醒」 P.40
04 『アーク都市塾 第22期 第11回「日本型映画ビジネスの今後 システムから変わる日本映画の世界」』森ビル(WEB) 1999年7月26日
05 『デジタルスタジアム 第215回 クリエイターズ・ルームズ vol.1 映画監督・樋口真嗣~映像の新しい可能性~』NHK BS1 2005年3月5日放送
06 『X+ エクスタス 2001年01(群像2001年9月号増刊)』講談社 「映画火薬量主義」 P.67
07 『キネマ旬報』キネマ旬報社 2000年9月上旬号 巻頭特集「U-571」 P.46
08 『キネマ旬報』キネマ旬報社 2005年3月下旬号 巻頭特集「ローレライ」 P.38
09 『MouRa FRAMES 「あなたとわたしのGAINAX」第6回』講談社(WEB) 2003年12月17日~2004年1月14日
10 『素晴らしき円谷英二の世界 君はウルトラマン、ゴジラにどこで会ったか』中経出版 2001年7月9日発行 P.95

[補足]
02は怪獣特撮についてのインタビューで、最後に「CGなどの方法で怪獣映画を撮ったら面白いと思われますか?」との質問に、「量も増やすし質も増やすっていう。それをやらないと観客は納得しない。ものすごい消耗戦になっていくと思うんです」とCGで競うことには否定的な見解を示した上で、「タイタニック」を引き合いに出している。

05はテレビ番組から。「北斎」と言っているのは、コメント出演の中野昭慶(特技)監督が、葛飾北斎の「富嶽三十六景・神奈川沖裏」を例に挙げ、画の中にある“大嘘”の価値を、特殊効果のあり方と重ね合わせて説明したことに対応したもの。樋口監督は少年時代に、東宝スタジオで中野監督に出逢っっている。

06は映画の爆発シーンを俎上に乗せた樋口真嗣・福井晴敏の対談で、息の合った掛け合い漫才的やり取りを、既にここに見ることができる。題材になったのは、「スター・ウォーズ」「スター・ウォーズ特別編」「マッドマックス2」「ダイ・ハード」「ダイ・ハード2」「エイリアン2」「007/消されたライセンス」「スピード」「ザ・ロック」「アウトブレイク」「ターミネーター2 特別編」「スワロウテイル 特別版」「アルマゲドン」「ザ・グリード」。

08は『ローレライ』の企画に影響を与えたとされる『U-571』公開時の言葉で、ほかにも「恐らく僕は戦争映画が好きというよりも、多分、作戦映画が好きなんだと思うんですよ」「映画を通じて正しい生き方というものを提示しなければいけない」といった思いを語るなどサブテキストとして重要なものになっている。

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