記シトキマス。 「秘伝 シナリオ骨法十箇条」
映画はやくざなり
笠原和夫(著)
新潮社
2003年6月25日発行
「仁義なき戦い」四部作、「大日本帝国」などで知られる脚本家・笠原和夫による「秘伝 シナリオ骨法十箇条」について、2004年12月17日付の当Blogに対する参考として記しておく。笠原が映画芸術 1991年冬号に寄稿した映画評を増強し、自著の「映画はやくざなり」に収めたものだ(遺作集となってしまった)。
映画はやくざなり
笠原和夫(著)
新潮社
2003年6月25日発行
「仁義なき戦い」四部作、「大日本帝国」などで知られる脚本家・笠原和夫による「秘伝 シナリオ骨法十箇条」について、2004年12月17日付の当Blogに対する参考として記しておく。笠原が映画芸術 1991年冬号に寄稿した映画評を増強し、自著の「映画はやくざなり」に収めたものだ(遺作集となってしまった)。
ライトノベル完全読本(日経BPムック・2001年8月1日発行)はユニークな原稿が多く、これで価格1000円なら“買い”だ。しかし、決定版かと言うと、きっとそうではない。特にガイド本の役割としては、後続で出てくるらしい類書に期待した方がいい。
内容的なユニークさと、逆に限界は、母体雑誌(日経キャラクターズ!)に由来するように思われる。なにしろ母体は「ガンダム原理主義」なので、こちらも巻頭登場のイラストレーターは出渕裕、メインの対談は富野由悠季vs福井晴敏、といった具合だ。
あとは、出版ビジネス的な観点が強い。メディアワークス代表取締役・佐藤辰男、角川春樹事務所・角川春樹、それに主要レーベルの編集者がインタビューに応じている。キャラクタービジネス的な面も知りたいが、それは今後の本体でカバーするということか。
イラストレーターの紹介は意外にあっさり、の感。変遷史(これも安彦良和から始まる)に登場するのは、CG世代「緒方剛志、原田たけひと、黒星紅白、駒都え~じ」、新世代「放電映像、toi8、YUG」といった面々。ほかに、D.Kがコミックを寄稿している。
対談・鼎談ではほかに、冲方丁×古橋秀之、岩井志麻子×森奈津子×中村うさぎ、と手広い。ただ、ミステリー分野は扱われていないに等しく、講談社ノベルズ(メフィスト系)などは、ここでは“ライトノベルを意識した造本”の一般文芸書との位置付けらしい。
なお、2003年度ランキングの20位内で、「このライトノベルがすごい!」の一般参加による投票ランキング(総合)20位内と重複しているのは以下のとおり──。前者は1302名、後者(( )内)は396名がサンプルで、後者はシリーズでなく単体に投票する形になっている。対象とされた発行時期にも小異がある。
02位(01位) イリヤの空、UFOの夏(その4)
05位(07位) 戯言シリーズ(ヒトクイマジカル 殺戮奇術の匂宮兄妹)
08位(03位・10位) 終わりのクロニクル(1<上>・2<下>)
09位(07位) バッカーノ!(1931 The grand punk railroad 特急編)
12位(05位) マルドゥック・スクランブル(The Third Exhaust-排気)
13位(10位) 涼宮ハルヒシリーズ(涼宮ハルヒの憂鬱)
17位(17位) A君(17)の戦争(6 すべてはふるさとのために)
19位(03位) 撲殺天使ドクロちゃん
20位(13位) 悪魔のミカタ
最後に蛇足。あまりライトノベルとは関係ないのだが、富野語録──
「この前、昔の白黒の『大怪獣ガメラ』を見て、エセSFと呼ばれようが、エセファンタジーと言われようが、自分が最も大事にしていることがハッキリ言葉になったんだよね。それは「物語──世の中は男と女で作られている」」(以下・キャラクター論)
「戦争を行使する決定権のある人たちのことがよく分からなかったんだ。(中略)本当の特権階級の人間は、もっと分かりにくく特権を行使し得る立場にいるらしい。それが分かってくると、人の世というものは面倒くさいなと思うようになりました」
[追記]
語源の話。「ニフティのSFフォーラム(FSF)でシスオペだった神北恵太がライトノベルというジャンル名を提唱し始めるのは80年代も終わりになってから」(笹本祐一)とされている。
コラムまで読み通したところでは、金原瑞人「小説創作ゼミとは~ライトノベルから芥川賞まで~」、石原和「PBMとライトノベルの意外な関係」も、一読をお奨めできる内容だ。
余談だが、対談の日付が6月下旬に固まっていたりして、編集作業(エルスウェアが参画)は相当の突貫だったと想像され、修羅場の痕跡(誤字・脱字)も散見される。
それからこの分野を扱う際、カバー込みの書籍紹介は著者・イラストレーター併記がデフォルトになるべきでは? じゃないと、地位(ギャラ)向上を訴える出渕談話の趣旨と矛盾しない?
前のブログ(2004.07.22付)に記した「“後退に抵抗するための2003年サブカルチャー概論”宮台真司×宮崎哲弥」に関連する論考として、斎藤環著『フレーム憑き─見ることと症候』(青土社)所収の「マンガにおける「顔」と「関係」」(p.272 初出=ユリイカ 2003年11月号)にも触れておきたい。三宅乱丈『ペット』、それに山本英夫『ホムンクルス』が共通の題材となっているからだ。
斎藤は、この2作品を傑作と評価し、「いずれも漫画における「心理学化」を、きわめて対照的な方向で乗り越えようとするかにみえる」と分析している。この「心理学化」というのは、フィクションや社会事象などの様々な領域において、それらの原因を解釈する方法として心理学を頻用するような傾向を指し、斎藤環著『心理学化する社会」(PHPエディターズグループ)で詳述されている。
両者がどのように対照的かという部分は、ここには写さない。記しておきたいのは、「興味深いことに、漫画に限らずフィクションにおいて心理学や精神分析をベタなかたちで援用すると、なにか占いやまじないを連想させるいかがわしさに変質することがたいへん多い」という指摘だ。非常に肯ける内容ながら、ハリウッド映画を含め、こうしたセンスに無自覚なままの作品があまりに多い。
「対照的な二作品を見てあらためて思うことは、「心理学」なるものの無根拠性である。それは無根拠であるからこそ、これほど対照的なアイディアが、それぞれ別種のリアリティを獲得しうるのだ」
「その意味から考えても、二つの作品が置かれた位置は、きわめてクリティカルなものだ。私の予測では、二人の作家が本来のテーマを十分に掘り下げることができれば、これら対照的な二作品の主題が交錯する瞬間が必ずおとずれるはずだ」
特に『ペット』に対し、斎藤は、「世界の命運を握る戦いを描かずとも、人物の錯綜した関係性を描くだけで、これほどのスケール感が出せるという事実は単純に驚きだ。「幸せの記憶」について、精神分析は「それもまたトラウマの一種なのだ」などと解説してみせはするだろう。しかし本作はむしろ、心理学などの援用抜きでも、サイコものの傑作を描きうる」ことを示したと位置付けている。
モノ作りの現在についての個人的な覚え書きとして、Invitation No.11(2004年1月号)「エンタテイメント&カルチャー・オブ・ザ・イヤー」内の対談企画「“後退に抵抗するための2003年サブカルチャー概論”宮台真司×宮崎哲弥」(p.44)について要点を記しておく。
2003年のサブカルチャー作品を概観するこの対談の中で、宮台は、映画や音楽にレトロスペクティブ(懐古)傾向が顕著だったことを挙げた上で、「昔のものを、空間や時間という境界設定つきで持ち出してくると、たちまち消費されちゃう。陳腐化して終わり。むしろ時間的場所的なローカリティを排除し、素材が持っていたエッセンスを享受可能な形に加工する必要がある」と解説している。
「単に古いモノをインデックス化するんじゃなくて、そこから原理を抽象して、新しいモノを作るという方法があるんじゃないか」との主張だ(宮崎は必ずしも同調せずに「新奇的なものって滅多にない」と応じている)。また、「今回とりあげた作品から共通ファクターを抜き出すと、結局「過去のエッセンスを用いて、現実をどうやって享受可能なものに体験加工するか」が焦点だと思う」とも総括する。
一方、宮崎は、コミックの漆原友紀『蟲師』と三宅乱丈『ペット』を高く評価し、両者は「スタイルこそ違え、ひとつ似ているところがある」と指摘する。それは「もはや日常と非日常、現実界とインナースペースの間に、明瞭な分界線を引くことはできないという前提に立っていること」であるとし、さらに、これらの作品が持つ時代性は何かという問いに、「表象分析的にいえば、言葉、リアリティ、自我の、流動化ということ」と答えている。
宮台はこれに対しては、「現実が“闇”や“暗黒”と戦っているというのは、80年代的、オウム的、『ムー』的だね。現実が“闇"や“暗黒”に浸されている、というのが昨今の感覚だ。いずれも現実を“体験加工”しないと生きていけないんだね。体験加工といえば、70年代に萩尾望都や山岸涼子ら高踏系少女漫画から『ジュネ』的お耽美が生まれ、ヘビメタ的お耽美などを経由して、最近のゴスロリ系に至る流れがある」と補足している。
宮台 昔のSFだと、異世界からの侵入者がいて、そのわけのわからないものが人間をコントロールしようとするので、主人公がそれと戦って勝つか負けるか、という構図ですが、今の2つはそういうものじゃない。
宮崎 その世界を、単に設定や筋立てではなく、表現力によって成立させているのが、前衛の所以なのね。
宮台 そうか。そういうマンガのすごさを正当に評価する批評があれば、それを小説や映画の世界にトランスファーできると思うんだけど。
この主題を補強するために宮台が持ち出す「企業研修プログラム」の話題が興味深い。「体験加工の今日的形式」とはどのようなものかが、これによってだいぶ分かりやすくなっている。
宮台が企業研修プログラムを作る人間から聞いた話によると、80年代前半までの研修は、現実を演技空間としてとらえていた。それが、80年代後半からは、現実は仮で、異世界(からのミッション)こそ真だ、という発想になる。しかし、その発想だと、現実の苦難を前に動機が風化し、隠遁的になるという問題があるので、90年代からは、異世界と現実をリンクさせ始めた──というのだ。
宮台 当初、理想の異世界を思念して環境に働きかけることが推奨されたけど、環境は資本制システムと結合していて変えにくい。そこで約5年前から、理想の異世界における理想の自分を思念し、理実の自分へと流し込むやり方になったという。要は、異世界に意識を飛ばさず、自己像を自在に上書き可能にする変性意識状態──お祭り状態──をもたらすために、異世界を想像的に利用するようになる。輪郭の暖昧化を戦略的に利用している。
宮崎 それ、『ペット』の記憶加工みたい(笑)。大企業の人事部って侮れないなあ。精神分析的メタファをあえて使うと、下手に“抑圧”すると“解離”が起きて管理不能になりかねないんで、“抑圧”レベルを下げることで心的エネルギーを解放し、方向づけて利用する。究極的搾取形態かも!
宮台 異世界に逃げるのでなく、ココで祭りをやれと。サブカルにおける、『ムー』的な“異世界への退却”から、『蟲師』『ペット』的な“現実の輪郭の引直し”への変化と似ているよね。
宮台 ある種の“ゲーム化”に近いね。厳しい現実に直面しても「これはゲーム」と思い込めれば、痛みを間接化できる。最近の研修は、現実を「自我理想に近づくためのゲーム」として体験加工し、変性意識へと持ち込む。
宮崎 ちょっと違うんじゃないかな。ゲーム化ってのは「これはゲームだ」といって“リアルな自分”を守るわけでしょ。ここには明確な主体はないの。
宮台 じゃ“主体なきゲーム化”か。
宮崎 ああ、それが今かな。全的溶解感覚。
なお宮崎は、こうした傾向の作品に全面的には賛同せずに、「危険性はあるの。自と他、内と外、表と裏、光と闇の分界線が曖昧になることで、社会変動を駆動する力が励起されなくなってしまう気がする。脱力して“永遠のいま”に内閉されていく予感がするんですね。懐古的ないしは疑以祝祭的な退却じゃないが、これはこれでトラップなんじゃないか」とも語っている。
「冲方丁×乙一によるライトノベル必読書100冊」という対談に釣られて、買うのはホントに久しぶりだなあというのが、クイック・ジャパンのvol.54。「ライトノベル変遷史」「ライトノベル完全マップ」に挙がっている作品は、個々にはタイトルぐらいは知っているものばかりだが、1970年代に始まるこのような歴史観(小説史観・サブカル史観)があったとは。体系的には見ていなかった分野なので、新鮮。
「ライトノベル」と呼ばれるジャンルの(現状での)定義や、混沌とした様相、出版不況とは無縁らしい状況について、およそのことが理解できる。冲方丁(インタビュー「今まさに僕らが、ライトノベルの方法論を作っている」)のストレートな語り口には、ちょっと紀里谷和明を連想し、“天野喜孝つながり“かと思ったりも。って、かなり遠回りだが。以下、冲方丁の発言から心にとまったところを再編集──。
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